Chō-Han

賭博の歴史回想

カジノIR法案の成立によりカジノ解禁に向けて法整備を整えようと連日、マスメディアで多くのカジノについての議論が交わされているようです。日本の賭博史から紐を解いていくとそもそも、日本はギャンブル大国なのでしょうか?日本国内では全国津々浦々とパチンコ屋が合法的に軒を連ねていることは周知の通りです。従って、日本人は世界中の民族と比較してもギャンブル好きな民族であると認知されているようです。それでは、一体、日本国内における賭博のルーツはどこから始まったのでしょうか?参考文献を元に調べて見ましょう。

賭博のルーツは日本書紀から?

日本における賭博のルーツはユニークな事に日本書紀に残されています。それは西暦685年、当時の天武天皇が博打を見物した内容が記されています。その当時の博打は盤双六(ばんすごろく)と呼ばれる物でした。これは双六、すなわち、サイコロを用いて盤上の両方に置かれた15個の石をどちらが先に全てゴールさせるかを競い合う単純なものでした。その当時、牛や馬が賭けの対象とされた模様です。この頃は遣隋使や遣唐使といった使節団が現在の中国に派遣されて優れた文化を大陸から積極的に取り入れようとした歴史敵背景があります。

この時代には中国大陸から囲碁やサイコロといったものもこの頃に日本に入ってきた様です。意外な事にこの当時からも賭博に対して規制があって、決して賭博は庶民の娯楽ではなかったようです。当時の女性天皇である持統天皇は、689年には賭博に熱を入れすぎて農作業を怠ったとされています。そこで、その夫である天武天皇が双六禁止令を国民に発令したのでした。その法令を破ると罰則も厳しく、賭博をした役人には財産没収と解雇、そして下級役人に対しては鞭打ち100回の刑が下されました。それほどきつい罰則事情には賭け事を合法化して国家の収益としての発想に及ばなかった原因でもあるようです。ユニークな事に賭博禁止令を発令したのは女性天皇で古来より男性が賭博にのめりこみ仕事を放棄するという縮図が現代社会にも通ずるものがあるようです。

戦国時代におけるギャンブルとは?

戦国時代に入ると双六の賭博の影響力が増してきた時代となりました。何故ならその当時、戦国時代では文字通りの戦が日常茶飯事で賭博は合戦の合間の息抜きとして重宝された既成事実があったからです。その当時には戦の状況下で双六の道具をわざわざ運んで、広げてサイコロを振ると言う大がかりないささか面倒なものでした。その後、双六も進化して発達したのが丁半、博打です。具体的には丁半博打はサイコロ二つの出目の合計が丁(偶数)なのか半(奇数)なのかを予想するシンプルなゲームです。単純にサイコロの数字のみで勝負が決まるものでした。この頃カルタもポルトガルから長崎を経て日本国内に広がった模様です。戦国武将達のゲームではカルタの存在も人気のゲームであったようです。現在のトランプカードの様で48枚、1組でプレイされていました。持ち歩きが便利で武将達の人気を博したようですその後、このカルタは「天正カルタ」と呼ばれて重宝されたようです。そして、その当時の庶民においては宝引きが流行した模様です。これは現代の屋台などのおみくじの様なもので多くの束ねられた縄の中から当たり縄を引き当てて勝者になるという単純な博打でした。

江戸時代賭博の変遷

時代の移り変わりにより賭博の様相も変っていきます。江戸時代に入ると賭博も多様化していきます。戦国時代に流行したカルタも1648年には幕府によって禁止されてしまった様です。しかし、どの時代にもギャンブルは法の隙間をくぐり抜けて48枚から75枚にカルタ数を増やしたうんすんカルタなるものが登場しました。その後も続々とアレンジされたカルタが登場しました。が、しかし、寛政の改革として松平定信が1787年に発令した事から賭博用のかるたの製造と販売を一切、禁じたのでした。その後に華々しく花札が登場しました。カルタの悪いイメージをその後に払拭して出てきて流行したのがこの花札なのです。幕府の目をいかにもかいくぐって賭博をしたいと言う念が日本人の賭博に対する根強い執着心でもあります。

その後、江戸時代中期に入ると寺社が発行した富くじなるものが流行して中政府のお墨付きをもらって庶民の間でブームになった様です。これは正に現代版の宝くじです。その内容も現在の宝くじと全く変らないようです。しかし、富くじを販売するには幕府の許可が必要となりやはりその当時ではそれがネックとなった様です。幕府の許可を得ずに陰富(かげとみ)となる違法富くじが流行しました。その後に陰富の還元率が一般的に良い事が判明して徐々に富くじは衰退しいきました。結論的に、富くじが衰退の道を辿る方向へと向かうのでした。江戸後期に入ると闘鶏という鶏を闘わせたものも流行しはじめました。奈良時代や平安時代から存在していたこの闘鶏では日本書紀にも記載されていました。その後、江戸時代に浸透したあらゆる賭博が生み出された様です。

明治戦前突入の賭博の変遷とは?

江戸幕府の終焉を迎えて世の中が混乱した状況下の中で明治時代に突入します。この時代では自由民権運動という政治的な色を染めだした時代の転換期を迎えていきます。この頃の自由民権運動が活発化されて反権力的な思想を持ちかなえた博徒の存在が大きいようです。賭博によって生業を立てている輩も出だして日本のギャンブル創世記が確立されたかの様に思われます。しかし、明治政府はこの頃に彼らを弾圧するために賭博犯処分規則を制定するのでした。それ以前では賭博に対する罪の意識が低く現現行犯に留まり逮捕のみとなっていましたが、その後に厳罰化されて強制力が強くなった傾向が見られます。それは国民に対して賭博を反権力的なものとしてマインドコントロールするものでした。その頃には文明開化によってもたらされた西洋文化から多くの影響を受けたのでした。トランプの出現もその一つです。それを受けて江戸時代に禁止されていた遊戯などで使用されていた花札が解禁となりました。地方色豊かな絵柄をふんだんに使い花札が絶頂期を迎える事となります。しかし、こっぱいぜいほうなる租税法が1902年に制定されました。これはギャンブルに使用される所謂カードゲームや麻雀牌などに使用される製造業者に課される税金です。そのこのあとに制定により多くの花札製造業者が倒産しました。その後、花札の人気は衰退したのでした。

戦後の賭博

昭和に入り第二次世界大戦の終焉を迎え戦後すぐに公営賭博が開始されました。これまで禁止されてきた賭博の胴元を政府が強行に行うということで世間から大きな批判を浴びたのでした。

戦後には公営賭博として競馬や競輪、オートレース、宝くじ事業が運営されているのです。又、そこでパチンコ業が三店方式という形式でグレーゾーンとは言えども全国津々浦々に展開し始めた時期でもあります。

日本中のどこの町でもパチンコ店が軒を並べる様になりました。昭和に入り賭け麻雀や野球賭博と大相撲八百長問題などが社会問題となってきました。現在でもオンカジや裏カジノの出現で違法賭博といったギャンブルが日本国内で問題になりました。今回のIR推進法により法整備が整えられて健全で合法的な社会になるように今後の動向に注目してみたいものです。